2009/04/08

「魔法の9」背景

 ( 911報復爆撃後の2003年。アフガニスタン・カブールの避難民テントに住む子どもたちと。)

☆映画「魔法のナイン」製作 <背景>
 終わらない「テロ」との戦い!?

2003年、私は、アフガニスタンの首都カブール
の避難民テントに立っていた。
学生時代から写真や映像製作に熱中していた私は、
ひょんな縁で、ドキュメンタリー映画の監督と出会い、
たまたま参加する流れとなったのだ。


 アフガニスタンは、疲弊していた。
911事件のアメリカによる報復爆撃。
長年の内戦による、廃墟の群れ。
壁には、銃撃戦の名残が。

戦車が、池の中に放置。
数十年も前の朽ちた物も合わせ、多数落ちていた。


家のない避難民たち・物乞いが、あふれていた。

物乞いに座る、戦災未亡人
撮影は無事終わり、
帰国後、映画は,完成を迎えたが、
その後も、割り切れぬ思いが私を覆った。

一番ショックだったのは、水だった。
濁った水を回しのみする子どもたち。
避難民テントの中を覗くと、
一枚の絨毯以外、何ひとつなかった。

濁った、井戸の水


子供たちの腕を触れば、
木ぎれのように細く、人間の骨とは
とても呼べるものではなかった。
服は、汚れて破け、裸足。
家もなく、綺麗な水すら、ない。
そんな過酷な環境ながらも、私たち外国人に
無邪気な好奇心を露わにして
微笑みながら、跡を追いて回った。

避難民テントに暮らす子ども
この避難民テントに動めく、
無数の人達の光景は、
私が、今まで目にした中で、
「最強の、暴力の構図」だ・・と私は感じた。

彼らは、元々は、持っていたはずなのだ。
暖かいおうち。
お父さん・お母さん。
安心・安全な暮らし・・。
それを、奪った人間たちが、この世界には存在している。


私は現地に行くまで
知らなかったのだが、
アフガニスタンでは、地球温暖化の影響
といわれる、未曽有の大干ばつが進行していた。

国連による警告は
既に2000年に世界へ発信されていた。


「中央アジア一帯に、未曽有の大干ばつ
が進行しており、中でもアフガニスタンの
干ばつ被害は大きく、被災者1200万人
飢餓に直面する者400万人以上
飢餓線上にある者、100万人以上」と。



アメリカは、世界一、裕福な国だ。
そんな国が、最新兵器とミサイルで、
こんな国を、攻撃していた。
干ばつの地に、雨ではなく
爆弾が降っていた事実に
私は衝撃を受け、無知を恥じていた。
知らなかった・・。

この避難民テントは、アフガンの首都の中心地にあった
ニュースでは、知り得なかった現実。
そして、わたし達の国、日本も、
この戦争を支持し、加担している。
私たちの税金によって。



帰国後、私は路上で
井戸掘りの募金を、集めはじめた。
911後、早くも「アフガニスタン」は、
日本の報道から、姿を消していた。
多くのニュース同様、無関心の忘却のふちに。
どんなに小さくても、伝えなければ、と思った。
活動を続ける内、少しづつ、協力者が現れ、
たくさんの善意に助けられ、
約半年で目標の100万円に達した。

私は、NGOの、アフガン担当として
再びアフガニスタンへ向かった。


まだまだ治安の安定しないアフガニスタンで、
素人の自分が井戸掘りプロジェクトを行うのだ。
周囲に迷惑をかけない為に、
念のための遺書を書いて、出向いた。
 
(完成した井戸)
私は約3ケ月の滞在中、調査を繰り返し、
2つの井戸を掘らせてもらった。
アフガニスタンの過酷な状況と、貧困を、さらに肌で知った。



<日本の戦争体験者との出会い>

私は「戦後世代」と言われて育った。
が、「戦後」なんて、まだ
地球上に一度も訪れていなかった。

戦争は、私たちの日本からは、一見、消えたように見えたが、
場所を変え、形を変え、生き永らえていた。
最も、弱い立場にある市民たちの元で。

私は、それまでの価値観が、音をたてて
崩れ去っていく音を、はっきりと聞いた。


その後、アフガニスタンには、行けなかった。
ようやく2006年に再訪したが、
ほとんど外出はできなかった。
イラクに、自衛隊が派遣され、
日本がアメリカに加担している国、と
徐々に知られ始めた。
誘拐のターゲットになりうる。
自爆テロ事件も、急激に起こり始めた。

そんな状況下、素人の自分は、
何の実益も、現地でもたらせないばかりか、
協力してくれるアフガニスタン人の命も、
危険にさらす可能性まで生む。

友人に会えない。
これも、戦争の大きな弊害だ。
「国が違う」だけで、「国と国の関係」で、
私たちは、会いたい人達に会うことができない。

平和がいい。平和がいい。
そう地団駄を踏むある日、
日本の戦争体験者のKさんに、出会った。
Kさんは、幼少時に体験した、
高松空襲の体験を、語り継いでいる方だ。
私は、自分の足元を、あまりにも
知らなかった事に気づいた。

(「世界平和出発 
1945年7月4日」
書かれた
プラカードを持ち、
高松空襲の
惨禍を訴えるKさん)






私は、日本の過去の戦争を調べ始めた。
戦時を知る方々に、実際に会って
話を聞いた。
そこには、私の全く知らない「日本」があった。



戦争が、私たちの日本にもたらしたもの。
それは何だったのか?
教科書では、教わらなかった日本を、今、もう一度、見つめたいのです。

 
おりしも、国民投票法が成立し
2010年5月以降、平和憲法の9条
を変えるための、国民投票が、行われる。
結果によっては、日本も、また、
戦争に参加する国になる。

彼らの想いに、もう少し耳を傾ける
べきだったのではないか? と撮影前から、
私は深く恥入っている。
知らなくて、ごめんなさい。

アフガニスタンの泥だらけの避難民の子どもたちと、
高松空襲で、家を焼かれ、炎の中、命からがら逃げ惑った、
今は75歳のKさんの顔が、ダブった。

彼らの瞳は、じっと私を見つめている。
未来を哀願するかのように。


表現方法: ドキュメンタリー。      
       

「魔法の9」ってどんな映画?


~教科書では教えてくれない、センソウの記憶~




映画「魔法の9(ナイン)」では、さまざまな立場の
戦時を体験された方のお話を記録します。



今、「先の戦争を、どう捉えるか」 いろいろな意見があるようです。
議論もありますが、まずは、戦時を生きた方々に、
直に体験をお聞きしたい。
そして、彼らの「今の思い」に、しっかりと耳を傾けたい。
そんな思いから、この企画が生まれました。
1945年、焦土と化した、日本列島。
普段目にしていた街が一瞬に焼かれ、彼方まで焼け野ケ原が続いた。
現代のゆたかな日本からは、想像もつかない現実。
当時は、どのような時代だったのか・・?


<さまざまな立場から>
さまざまな立場の方から、戦時の話をお聞きします。
実際に、戦場で戦うこと。
そこで目にしたもの。
そこで行われた教え。
空襲に遭った日のこと。
日本の被害と加害。
たくさんの記憶の欠片を、つなぎあわせたとき、
一体、何が見えてくるのでしょうか・・?


<上映方法> 
自主上映という形をとらせていただきます。
希望者にDVDをお送りして、地域で上映会を開いていただきます。
すでに、上映希望のご連絡をいくつかいただいております。

< 完成の目標。 憲法改正の国民投票までが、今の目標です・・!>

みな様は、平成22年5月18日以降に、
日本で、ある国民投票が予定されていることを
ご存じでしょうか?

これは、「平和憲法の一部を改正する」ための投票で、
現段階で、18歳以上の方に投票権がある、
とされています。


 もし、「改正」票が、(有効投票数の)過半数を
超えたなら、平和憲法(9条)は改正され、
日本は再び戦争に参加する事が
可能となります。


 さて、この映画は、「9条を、変えるな!」等
ひとつの意見を主張する事
を目的にしているわけでは、ありません。

「9条がなかった時代は、どんな時代だったのか?」

まずは、当時を体験した方からお話を聞き、
お1人おひとりが、
自身の頭で、この問題を
しっかりと考える、
そんなきっかけとなる
映画を、目指しています。


映画製作を支えるサポーターを募集中です。
よろしければぜひ、私たちとつながってください

完成日の目標を達するためには、
みなさまのご支援・ご声援が何よりのサポートです。
ご賛同いただける方、どうぞ、
よろしくお願いいたします。


はじめまして

映画「魔法の9」製作実行委員会 
代表の、前田真吹と申します。
よろしくお願いします・・!

●プロフィール●
2003年  自主映画の撮影のお手伝いで、
      アフガニスタンに初渡航。
      以後NGOスタッフとして、2004年・2006年と
      井戸掘り支援や学校支援に訪れる。

2005年   某NGOのスマトラ沖津波地震 
       インドネシア・アチェに、調査・取材撮影担当
       として同行。
2006年   某NGOの地球一周の船旅に、
       撮影担当として同行、等々

 現在は、「日本の戦争体験者と、現代の若者をつなぐ」
事のできる自主映画 「魔法の9(ナイン)」を、
企画進行中です。
製作サポーター大募集しています・・!
よろしくおねがい致します。
(基本は、ただのワーキングプアだと思っていただければ
一番近いかと・・)